10月15日(木)
吉本隆明『フランシス子へ』(講談社)を構成した瀧晴巳さんが「あとがきにかえて」に書いている。吉本さんは、「自分のことを『なんの取り柄もないダメな人間だ』といい、ちょっとでもいいことを言うと『説教みたいなことを言ってしまった』と反省する」のだそうだ。
自分のことを「なんの取り柄もないダメな人間だ」なんて言うなんて、それだけでも、すごいなーと思った。僕などは、ちょっとでも褒められたりすると、嬉しくなって、嬉しくなるだけならまだしも、その褒め言葉を僕のことをまったく知らない多くの人に、なんとか伝えることができないだろうかと、どこかで思ってしまう。
歌を歌えば、なるべくうまく歌おうとし、文章を書けば、気のきいた言い回しや感心されるようなことを書きたくなる。そうだよなーと思われるような格言を生み出したくなる。ところが、吉本さんは、「ちょっとでもいいことを言うと、『説教みたいなことを言ってしまった』と反省する」のだ。
「結婚して子供を生み、そして子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値ある存在なんだ」(『敗北の構造』弓立社)とも語っている。みんなから尊敬され、素晴らしいと思われている人と、何の役にも立っていそうにない名も知れぬ人との生や死の重さと同じであるということだ。
「僕はインテリを嫌い抜いています」と語る小林秀雄もそうだ。「最近は、黙っている人の方が100倍も1000倍も利口に思えます」。「主張する人がいれば、『あなたのおっしゃる通り』と答え、意見を求められたら、『私は見ての通りです』と答えるのがいい」と言う。
どうしたら、こういう心境になれるのだろう。人はみな、自分の存在を認められたがっている。求められたがっている。ステキ、かっこいいと言われたがっている。ところが、「普通に暮らし、普通に生活していくだけでいいのです」と、日本を代表する思想家がおっしゃっているのだ。ほっとする。10月10日(土)
「最近、ホームページの日記が表示されないのですが、なにか設定とかがあるのでしょうか」という問い合わせがありました。 すいません。設定などはありません。実はここ数カ月書いていないのです。
書き下ろし『心が見えてくるまで』を書き上げるまで、そちらに集中して日記を書かないでいたら、書けなくなってしまったのです。他にも理由はあります。面白いと思うことがだんだん少なくなってきたり、数々の失敗をして、元気が出なかったり。しかし、そんな中にも、確実に感激し、感動したことがあります。でも、それは自慢ぽかったり、勝手に載せることはできない私信であったりします。
「元気をくれるものだけが正しい」
また、気が向いたら、少しずつ書いて行くようにしますね。