第3回 黒鳥
食べ物のことをあれこれ言うのは、あまり好きではないが、歳をとると昔より大食いではないから、出来れば美味しいものだけを食べたいと思う。
ある時、外で間違ってひどくまずいものを食べてしまった時、店を出てすぐに思ったことは「今、交通事故には遭いたくないな」だった。
死ぬ時ぐらいは、美味しいものを食べて死にたい。
父は最期「お鮨を食べたい」と言った。贅沢を好まず、生前、お鮨を食べなかった人がだ。（母は隠れてお鮨を食べていた）ところが、あいにく、病院のそばに開いているお鮨屋がなくて、のり巻きになってしまった。
母はラーメンだった。しかし、付き添っていた姉が、まさかラーメンだとは思いもよらず、そーめんになってしまった。死ぬ間際は、もう言葉が聞き取れないのだ。そーめんをゆでて母に出すと「これじゃない。よっちゃんの、北海道の、ファンの人が……」と、やっと言う。結局、何を食べたかったのかが最後まで分からなかったと、あとで姉から聞いて僕は「あっ、ラーメンだ」と確信した。
前に、母の家に旭川のラーメンを持っていったことがあるのだ。美味しいと言うので、二度ほど持っていったことがある。ファンというのは母の勘違いだ。もちろん、食べたいといっても全部を食べられるわけではない。ただ、ほんの少し口にして、その時の、あの時のことを、きっと思い出したかったのだ。
そういえば、こんな話もある。父が胃がんで入院していた時、母は毎日、病院に通って看病をしていた。ある日、義姉が病室の戸を開けたら、母が父のベッドの上に乗っていたのでびっくりして戸を閉めたという。くわしくは聞かなかったが、どうも、おっぱいを吸わせようとしていたらしいのだ。
父が望んだのだろうか。それとも、母が無理やりしたのだろうか。わからない。僕だったら（もしも希望を叶えてもらえるなら）看護婦さんの方がいいと思うのだが。父は下の世話も他の人にしてもらうのを嫌がり、ずうっと母にしてもらっていた。
変なことを憶えている。僕が中学生の時だ。近所の薬屋で母と買い物をした時、母が「何か景品ないの？」と言ってガムをおまけしてもらった。そばにいて恥ずかしかった。そういう母だった。商売をしていたから、そんなことは何でもないことだったのかも知れない。秋葉原に住み神田で商売をしていた。でも、父は値切るようなことは恥じていた。もっとも父と買い物をした記憶がない。
お葬式の時、父の棺は立派だった。教会に着くと、姉と母が「よっちゃん、これ、いくらすると思う。いくらいくらなのよ」とすぐお金の話をした。そんな家族だが一つだけいいなと思えたことは、父も母もお葬式で花輪やお香典をいっさい受け取らなかったことだ。それが遺言だった。
人は何かをやり残すことなく死んでいく。中途半端で終わってしまったように思えても、すべてをやりつくして息を引き取っていくのではないかと思う。何も喋らなくなった時、人は完成するような気がする。
月のように、太陽のように黙っている。犬や猫や鳥のように黙っている。痛いだの、悔しいだの、つまらないだの、面白くないだの、たとえそう思っても、いつまでも妬みはしない。黙っている。笑っている。歌っている。
ミータンが死んでいった時もそうだった。目を開け、ずうっと僕を見ていた。抱かれたがらない、甘えない、どちらかというと、がん飛ばし猫だったけど、おだやかで、優しい顔だった。「ありがとうね」という顔をしていた。半日抱き続けた。僕も「ありがとうね」と言った。
黒鳥は、2002年12月13日に飛んで来た。初めてのことだ。朝、チャコを連れて海岸へ散歩に行くと、5羽の黒鳥が波打ち際にいた。津田さんが黒鳥だと教えてくれた。写真を撮ろうと近寄っても逃げない。何枚か撮ったあと、海岸を歩き出すと、黒鳥は沖の方へ行ってしまった。
夕方、まだいそうな気がして、いつもより早く海岸に行ってみた。すると、また波打ち際にいた。その日は、僕の誕生日ではなかったが、近かった。もしかして、誰かが二度と逢えぬ誰かが僕を祝いに来てくれたのではないかと勝手に思った。2004.7.20
