第4回 使い捨てカメラ
海岸を散歩していると「すいませーん、写真撮って下さい」とよく頼まれる。だいたいカップルだ。友達や恋人同士なら、顔を寄せ合い腕を伸ばせばいい感じで撮れると思うのだが、景色や全身を写したいとなると、人に頼むしかないのかも知れない。
よく、街や電車の中でカップルがベタついているのを不快に思う人がいるが、僕はもてないわりには、それだけは気にならない。どんなに醜いカップルでも、もっとベタベタしてもいいよと思うくらいだ。とんでもないことでもすればいいのにと思う。見たくなければ、見なければいいのだし、素通りできるからだ。
しかし、映画のラブシーンは見れない。つらくなってくる。恋愛小説は読めない。そのかわり、あり得ない、意外、異様、変態(強姦とか暴行とか相手が嫌がっているのは駄目だが)はOKである。もてない男はやがてこうなる。
街の中でベタつくのは、一種異様なことだから、本来いけないことだから好きなのかもしれない。断っておくがのぞき趣味はない。そんなわけなので、写真を頼まれると「はい、もっと顔寄せて」と注文をつけてしまう。ある時など「はい、キスして」と言ったくらいだ。微笑ましく思う。使い捨てカメラを持っている人は、初めてのデートの人が多いからだ。熟練者は、もっと違うカメラで、もっと別なものを撮っている。
この間、ふざけあっている娘からのメールの件名が「ヨシ様」となっていた。「ヨシ様」っていったい何なんだろうと思った。随分しばらくしてから「あっ、そうだったのか」と気がついた。流行を知らないということは、なんて快感なんだろうと思った。昔「抱っこちゃん」が流行っていたころ、勉強ばかりしていた三番目の姉がそれを知らなくて、「えー」って驚いたことがあった。今思うとうらやましい。
友達にもそういう人がいた。ものに対してくわしいことが恥ずかしいのだ。車にくわしいとか、何々にくわしいとか、つまり、通である。いや、職人は好きだったはずだから、専門家のふりをしている人たちが嫌いだったのだろう。
そういえば、五郎ちゃんは(何度も登場するからって、友達が一人しかいないというわけではない)小説を書き、音楽について文章を書く人であり、歌い手でもあり、女を無理やり口説いている人でもあるが、本来はブコウスキーなどの翻訳家である。ゆえに、英語がぺらぺらだ。ところが、僕はいまだかつて一度も五郎ちゃんの口から英語の単語を聴いたことがない。歌詞だって、今の流行歌と違い、一言たりとも英語が使われていない。
そういうものだ。ものごとを中途半端に知っている人ほど、知識をひけらかす。僕もそうだ。たとえば、カメラが好きになるとつい機種名を口にしたくなる。ところが、専門家は喋らない。ソクラテスは考えた末に「わからない」と答える。小林秀雄は「あなたのおっしゃる通り」「私は見ての通り」。それだけで世を渡っていくのがいいと言う。
先日、バーベキューをやっていた団体から、使い捨てカメラを3台手渡された。総勢男女20人ぐらいだ。リーダーみたいのが「みんなこっち来て、並んで、前は坐って」と号令をかけると、さーっとそうなる。だらだらしてない。体育会系だ。「では、撮りまーす」と声をかけると、なれたものだ。みんないっせいに、それぞれ得意のポーズをとる。思いっきり手を広げたり、構えたり、笑ったり、すごんだり。僕もシャッターを押すたびに「いいねー」とか「バッチリ!」と言う。どう撮れたかはわからないけれど、その方がお互いに安心する。終わると飛んできて「ありがとうございまーす」と頭を下げられた。さわやかで明るい若者たちだった。うでに刺青があった。2004.9.15