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 JACKS / LEGEND 40th Anniversary Box


第9回 ジャックスについて


 2008年9月初旬、EMIミュージック・ジャパンの加茂啓太郎さんから『ジャックス40周年記念アルバム』を出したいという相談を受けた。僕は「申し訳ないですが、正直、熱意がありません。僕はいっさいタッチせず、加茂啓太郎責任編集みたいな形が理想です。よろしくお願いします」と返事を出した。

 僕の気持ちは変わらない。「潔くないと思われてもかまわない。昔があったから今があるので過去を否定するつもりはないけれど、僕は過去ではなく今を生きているのであって、今の僕の歌声を聴いてもらえることが一番嬉しい。そこに力を注ぎたい。自惚れていると思われてもかまわない。大切なのは常に、今輝いているか輝いていないかどうかだけなのだ」(2008年9月23日の日記より)

 ジャックスは僕が18歳から21歳ぐらいまで歌っていたバンドだ。たまたま学校で知り合った仲間が気ままに音を出し合い、何かを目指そうとか、人より変わったことをしようなどと話し合ったわけではない。誰もが最初ギターを手にすれば、普通はコピーから始めるのだが、僕は技術的に無理だったので、自分で歌を作り始めた。そうすれば、その歌に関してだけは自分が一番うまく歌えるはずだと思ったからだ。

 木田高介君はドラムといってもスネアーとシンバルだけ、水橋春夫君は触ったこともない借り物の12弦ギター、ウッドベースの谷野ひとし氏もおそらく借り物だったのではないだろうか。それでも、4人が揃った翌日には、ラジオ番組に出演したりした。待ちきれないで歌った。それだけが取り柄だった。
 練習は昼間、秋葉原の僕の家で雨戸を閉めきってやった。チューニングは唯一譜面が読める木田君が受け持ち(当時はチューニングメーターなどない)、絡まったコードも性格的に全然イライラしない木田君がほどいてくれた。水橋君はプロコルハルムの「青い影」をよく一人で弾いて歌っていた。上手だなと思った。自宅にファンクラブの一室を設け、友だちに手伝ってもらい会報を3号ぐらいまで作った。歌の持つ暗いイメージとは違い可愛い女子高生が時々遊びに来た。練習が終わると水橋君はさっと帰り、僕と木田君は新宿風月堂、谷野氏はジャズ喫茶に通っていたような気がする。

 出演できる場所は極めて少なかった。グループサウンズではないし、フォークソングとも違うから、どの会場でも常に浮いていた。独自でジャックスショーを開いたのもそんな時期だ。第1回ヤマハライトミュージックコンテストで入賞し、タクトからシングル盤を出し、東芝からLPを出したが、録音を終えた段階で、ギターの水橋君は辞めて行った。
 気が抜けてしまった3人は水橋君に代わるギター奏者を探したのだが、なかなか見つからない。途方に暮れていたころ、今考えると実におかしな話だが、ドラムの木田君がドラムの子を連れてきたのだ。「つのだ君の方が上手だから、自分はサックスやヴィブラフォンをやるよ」と言う。つのだひろさんには何の責任もないが、リードギターを弾ける人がいない妙な編成になってしまった。

 ザ・フォーク・クルセダーズの紹介で高石事務所(のちの音楽舎、アート音楽出版、URCレコード)に所属した。そこは、ギター1本で会場を満員にできる関西フォークの人たちがたくさんいた。ところが、ドラムと電気楽器を使うバンドは僕らだけだったので、そういう体制ができていなかったため、たまに仕事があっても、出演料より楽器の運搬賃の方が高くつき、給料明細書はいつも赤字であった。
 自然と仲間内から不満が噴出した。ほこさきは、アルバイトとして他人のバックバンドを務めることが出来なかった僕の能力にも向けられた。僕は「文句があるならやめましょう」と言った。1枚目の『ジャックスの世界』では録音後にメンバーが1人抜け、2枚目の『ジャックスの奇蹟』では録音前からすでに解散が決まっていた。誰が悪いのでもない。不完全燃焼だった。実に不幸なバンドだった。

 人間が形成される一番多感な時期に、僕は誰と出会い、何に感動し、何にいらだち、何を考えてきたのか、自分の中で整理したい気持ちはあるのだが、ほとんどの出来事を忘れてしまった。ほんの少しの厭な場面が生々しく残っているからだろうか、記憶の蓋が全部開かないのだ。
 資料を並べても心の底は見えてこない。誰が語っても真実とは限らない。うまく語れない部分に真実がある。何に重きを置き、どの角度から、誰の目から見るかによって全然違ってしまうからだ。音楽だけがすべてを物語っている。

 解散後2年ほど、僕は制作の仕事に就いたが向いてないことを悟り、23歳から24年間本屋で働いた。音楽も聴かず楽器も触らず、昔のことはいっさい振り返らなかった。音楽を中途半端でやめてしまった気持ち悪さと悔しさみたいなものが入り混じっていた。達成感も満足感もない。もしも喋るとすれば言い訳しかなかった。
 早くおじいさんになりたかった。しかし、このまま歳をとりいざ死ぬ時、自分の体はちゃんと燃えないのではないかと思った。骨以外のものが残ってしまうような気がした。もう一度最初から歌おう。今度こそ悔いの残らぬように歌いたいと思った。

 過去を恥ずかしがらずにするためには、あれで良かったのだと思うためには、やり残したことをやらなければならない。あのころと僕は何も変わっていない。いったい僕は何を歌いたかったのだろう。沈黙していた数十年間、実は歌っていたんだと思えるように歌いたかった。

 多くの人には受け入れられず、売れなくて解散した情けないバンドだけれど、見抜いてくれた人はいた。佐久間正英さんは15、6歳の時、お茶の水日仏会館でのジャックスショーを観て「感動し身震いした」と言う。松村雄策さんはライブ会場から外に出たら「世界が違って見えるようにさえ思えた」と回想する。森雪之丞さんは「僕のクリトリスを刺激したわけです」という言葉を残してくれた。

 それにしても、なぜ僕は過去の音源に対しこれほどまで嫌がるのだろう。昔の話をされると、まるで今の自分が否定されているように感じた。「昔のあなたは素晴らしかったねと言われても、あなただって嬉しくないでしょ」と憎まれ口までたたいた。もしかすると、僕はジャックスに対し、嫉妬していたのだろうか。

 過去を引きずり、過去を断ち切れないでいたのは、僕の方だったのだろうか。昔の歌声は聴けないとか、厭な思い出があるとか、あれから40年も経っているのに、もうどうでもいいじゃないか。もしもみっともない部分があるなら、笑い飛ばせばいいじゃないか。「元ジャックス」と紹介されてもかまわない。今の自分に確固たる自信が持てれば、過去がどんなに不完全で幼く醜く映ろうとも、気にならないはずだ。今輝いていれば、きっと過去だって輝いてくれるに違いない。

 1997年、桑田佳祐さんから『アメンボの歌』をプレゼントされた。「愛」以外の何があろうか。しかし、僕は歌いこなせず一生借りを作ってしまった。何万人ものGLAYのコンサートを終えて駆けつけてくれる佐久間正英さん、癌の治療が苦しくても最後は僕につきあってくれたHONZI。共演者はみんなそうだ。何のお返しも出来ない。
 僕の知らないところで応援してくれる人もいる。決して安くはない入場料金、一人前のCDの値段なのに、失礼極まりないが、僕は、昔も今も音楽で生活できたことは一度もない。これからもない。自慢でも不満でもない。なぜ歌っているのかと問われれば、歌わなければ自分は犯罪者になってしまうだろうと思うからだ。

 久しぶりに水橋春夫さんと笑いながら電話で話をした。中川五郎さんの解説を読んだ。あー、出すことにも意義があるのかなと思えてきた。松村雄策さんとも話した。加茂さんの誠意と熱意に、かたくなだった自分の気持ちがだんだんと和らいできた。心境の変化は、「これが今の僕です」と言える作品『I LOVE HONZI』を出せたことも大きい。
 松村さんの話によると、「自分も昔のアルバムは素直に聴けないんですよ。録音した当時の情景が思い出されてきてね」と言っていた。みんな暗い過去を持っているのだ。そして最後にこう語ってくれた。「今から40年前ですよ。日本で初めてですよ。20歳の若者が『ジャックスの世界』というオリジナルだけのロックアルバムを作ったのは。早川さんはへたっぴいと言うかも知れないけれど、誇りに思っていいことなんじゃないですか」と。

 加茂さんにメールを出した。「先日は失礼しました。解説を読んだあと、あれから、水橋さんと喋ったり、松村さんと話したり、加茂さんの誠意と情熱に対し、だんだんと、ジャックスについて、自分のかたくなな気持ちがほぐれてきたような気がします。ジャックスについて、自分が思っていることを、少し前から書きだしました。自分のHPに載せるためです。まだ、下書き段階ですが、自分の気持ちがやっと整理できました。過去にこだわっているのは、自分だけではないかということに、気づきました。だからといって、表だって何かをやろうというわけではないですが」
 加茂さんからご返事をいただいた。「早川様の気分を害してまでリリースする事の意味があるのだろうか?と早川さんの音楽のファンである自分との葛藤が正直何回か芽生えたのですが、今回のお手紙いただき大変心が晴れました。本当にありがとうございます」

 思い出したことがある。1枚目のアルバムを録音し終えた時、ギターの水橋君が辞めていったのは、単なるわがままではなかった。それまでの仕事はといえば、夏の真昼間、八王子サマーランドのプールサイドで、誰も聴いていないのに「からっぽの世界」を歌ったことや、大阪駅の階段をとてつもなく重いアンプとスピーカーを運んだことぐらいしか蘇ってこないのだ。水橋君にとっては、明るい未来は全然見えて来なかったのだろう。
 大阪でのライブのあと、みすぼらしい旅館で、水橋君が「早川君、こんなことしていたって売れっこないよ。俺辞めたいよ」と言い出した。仲間は必死に引き止めた。「水橋君のギターは、水橋君しか弾けないんだから」と。すると、ふだんお酒を飲まない水橋君が「俺も飲むよ」と言って、ぶきっちょな僕らはさんざん自我をぶつけ合った。僕はそれが嬉しかった。『ラブ・ゼネレーション』の歌詞「♪泣きながら飲めない酒をかわすのだ」は、そこから生まれたのである。

2008.11.28


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