12月1日(木)
11月11日、渋谷公園通りクラシックスで「はじめての二台のピアノ」と題し、渋谷毅さんと共演した。リハで音合わせをしたときから、びっくりした。一緒に弾いている渋谷さんのピアノの音が、まるで僕が弾いているかのように感じられたのだ。音が僕のピアノの延長線上にある。もちろん、こんな言い方は図々しいというか変に決まっているけれど、そのくらい溶け合っているのだ。といっても、音が加わって厚みが出たというのとも違う。思いもつかない場所から、思いもよらない旋律が奏でられてゆく。だからといって、意外性のある音というのとも違う。見えなかった景色が見えてくる。知らなかった情景に連れて行かれる。豊かになる。これは自分の曲だっただろうか。深く、優しく、美しい。ただ、ただ、寄り添っていたい。ピアノの音だけで泣けてきた。
終演後、久しぶりに聴きに来た娘が興奮気味に言った。「すごく良かった。パパ、ピアノ上手になったんじゃない。歌もうまくなったような気がする。渋谷さんに教わったの?」「習ってなんかないよ。でもそう思えるのは、やはり、渋谷さんの空気が伝わって来るからだろうな。どっちが弾いているかわからなくなったでしょ」「うん。でも、渋谷さんが弾いているってことがわかっていても、あっ、これはパパの音だ。パパが渋谷さんのレベルに達していたら、きっとそういう音を出すだろうなと思った。そのくらいぴったりだったね。渋谷さん、言葉を超えていたね。素敵だったなー。色っぽい。私も渋谷さんと共演したい!」。いったい何を言い出すんだろう。
凄い人は、自分の凄さを主張したりしない。自分の凄さを知らないからだ。それどころか相手の良さを引き出す。透き通ったたましいだけが、聴く人の記憶の奥底まで降りて行き、忘れていた悲しみや歓びを一瞬で蘇らせる。また、渋谷さんと共演できたらいいな。布絵:沢田としき
原マスミさんの音楽に出あったのは、僕がまだ本屋をしていた頃だ。ある女の子から『イマジネイション通信』というアルバムを渡されたのがきっかけだった。本屋時代、音楽が懐かしくなったのだろうか、無音が好きだったはずの僕がBGMを流すようになっていた。
原さんは歌いながら、顔をプルプルと震わせる。首をカクンカクンと上下する。あれはずるい。女の子はきっといちころだ。語りかける歌声、詞、メロディ、ギター、相手との距離感が見えて、リアルだ。
グレン・グールド「バッハ:ゴールドベルク変奏曲」、サティ「3つのジムノペディ」、デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン「イン・ア・センチメンタル・ムード」、エンニオ・モリコーネ「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」、キース・ジャレット「ザ・ケルン・コンサート」、ピンク・フロイド「ザ・ウォール」などをアキュフェーズのアンプとヤマハのスピーカーでかけていた。
日本語の歌はうるさく感じてほとんど聴かなかったが、原マスミ「天使にそっくり」だけは気に入って、「あー、僕もこういう歌が作れたらいいな」と思いながら聴いていたのだった。その後、僕が再び歌い出すようになってから、目黒区美術館から声がかかり共演したり、その後も何度か機会があって、今年は「ふたりはH」と題し、金沢から沖縄までツアーを行った。
普通、男は自惚れていて、どんな男でも自分が一番だと思っている。たとえば自分の彼女が、「わたし、あの人がいい」って、別な男のところへ去って行ったら、すっかり自信を失う。あるいは、「あんな男のどこがいいんだ」と彼女のセンスを疑いあきれかえる。だが、相手が原マスミさんならば仕方がない。あきらめる。悲しいけれど。
二年ほど前、僕にも恋人がいたとき、原さんに「彼女取らないでね」と冗談まじりにお願いしたことがあった。原さんに「モテるでしょ」と訊くと、「僕は恋人より、女友だちの方がいいの。その方がずっと長く付き合うことができるし。早川さんもそうした方がいいよ。恋をして、ふられて、みじめになるよりも、女友だちを作った方がいいよ」と諭されたことがあった。たしかに、そうかも知れない。しかし、もう僕の性質は直らない。女友だちはしいこだけで、女の子を見れば、恋愛対象かそうでないかのどっちかになってしまうのだ。これが僕の不幸の原因でもある。
歌う仕事があるときだけ出かけることができる。ふだんは、ずっと家に引きこもっている。すべては自分のせいであるが、毎日が面白くない。目が覚めても起きる気がしない。食欲もない。だるい。またすぐに横になりたくなる。逢いたい人はいない。話したいこともない。そんなふうなので、「自分はずうっと暗くて、このまま何も生み出せず、終わっていくのだろうなと思っています」と、吉本ばななさんに打ち明けたら、
「早川さんは、歌ってるとき以外はもうなんでもいいんです。ぜひ暗く、何も生み出さないでいてください。そのうそのない暗い時間がみんな歌にいいふうにのりうつるんだと思います!」というご返事をいただいた。思わず、空を見上げた。