5月6日(日)
かつて、僕はある女性に恋をした。その娘に靴下や靴を履かせる時、快感を覚えた。随分、尽くした気がする。いや、尽くすという言葉は適切ではない。自分なりに大切に思っていた。もちろん、それは相手に頼まれたわけではなく、僕が勝手にしたことだから、むしろ、彼女からしたら、させてあげているくらいのつもりだったのだろうから、恩着せがましいことを口にするつもりはない。しかし、ある時、僕が冗談ぽく言ったほんの一言で、あきれかえるほど、冷たくされたことがある。魅力的な人であったが、がっかりした。
とどのつまり、僕は恋愛対象だったけれど、相手は僕をまったく恋愛の対象にはしていなかったというだけの話だ。誰が悪いわけでもない。しかたがないことだ。それにしても、まさか、こんなに温度差があるとは思わなかった。冷静になった今、もちろん楽しかった思い出はあるが、ふと嫌な会話を思い出す。いかに、人を見抜く力がないか。まさに、「恋は錯覚」「恋は盲目」であることを実感した。
めったにないことだが、相思相愛になったケースがある。彼女たちには、本当に感謝している。これはすごいことだ。もしも、他人に同じ行為をしたら犯罪で捕まってしまうことなのに、受け入れてくれるなんて、なんてステキな素晴らしいことだろう。至らなかった場合や別れる場合は、しょうがない。好き嫌いの問題だからだ。自分にも好みがあり、相手にも好みがあってのこと。魅力を感じてもらえなかったら、たとえどんなに好きであろうとも、黙って引き下がり、あきらめるしかない。
「彼と別れたら、とてもモテるようになりました。でもいまだに男の人の気持ちがよくわかりません」というメールを親友の元彼女からもらったので、「男はやりたいだけです」と答えたら、それっきり返事が来なくなってしまった。正直に答えたつもりだが、足りなかった。好きだからしたいのであって、したいから好きなのではない。好きな女性を狂わせ、自分だけのものにしたいと願っているだけなのだ。
「私は愛がどうの糸瓜(へちま)がどうのと言いたがる女が嫌いである。」(『文士の魂・文士の生魑魅』)。
「男が女を見て、きれいだな、美人だな、と思うのは、その女といっしょに寝たいということだ。」(『錢金について』)
どちらも、車谷長吉の言葉だ。
サティの曲が全編に流れる「エレジー」という映画を観た。老教授のセリフ。
「彼女のいない夜は耐えがたい 今 どこにいるのだろう 私を敬愛していると何度も言う そして それは本心だ だが 私のペニスが欲しいとは言わない」
「もう面倒くさいから愛のないセックスがしたいわ」は、北村早樹子さんの女友だちが言ったセリフだ。その方とは数年前一度お目にかかったことがある。色っぽかった。言葉通りに受け取ると、まるで、道徳観のない、倫理観のない、ふしだらで、いけないことのように映るけれど、僕にはその言葉が、「面倒くさくない愛のあるセックスがしたい」と言っているように聴こえるから、純粋に感じる。5月3日(木)
「元気ー?」
「まあまあだな」
「最近、CD売れなくてね。なんか儲かる話ないかなー」
「ないねー。水橋君、今、俺、箱根に来ていて、忙しいんだよ」
「えっ、誰と?」
「友だちと」
「それは、お楽しみのところ、失礼しました」