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エッセイ 24

ぼくの好きなもの 2 

早川義夫 日比谷公園大音楽堂 2010.8.29


「雲遊天下102」(ビレッジプレス) 2010年5月1日発行

 音楽は好きだけど、一番好きな「女の子」と同じく、好きゆえに嫌いなものがある。音楽なら何でも好きっていう人がいるけれど、そういう人がうらやましい。嫌いなものがなく何でも美味しくいただける方が人生楽しいに決まっている。自分も音を出しているのに、失礼極まりない話だが、BGMほどうるさいものはない。音楽は音のないところから聴こえてくるのだ。

 「いい人がいい音を出す」「いや、そうとは限らない」という論争を佐久間正英さんとしたことがある。論争といっても、佐久間さんは仕事場でも私生活でも、生まれてこのかた、怒りの感情を持ったことがないというから、たぶん激論を交わしたこともないはずで(離婚を数回繰り返しているにも関わらず!)。だから意見をぶつけ合うというよりも、ただの茶飲み話である。

 「『文は人なり』って言うじゃない。きどった人はきどった文章を書くだろうし、わかってない人はわけのわからない文章を書く。やはり、『音も人なり』で汚い人は汚い音を出すんじゃないかな」「そうかなー? でも性格が悪いのにいい音出す人いるよ」と指を差された。これでも性格がいいように随分とわがままを抑えているつもりなのだけれども。

 「じゃ、佐久間さん。性格は悪いけど演奏が上手っていう人をスタジオで使う?」「使わない」「でしょ。僕は嫌だなと思ったら、その人の音楽聴かないもの。たまたま耳にしても、歌い方や顔つきやちょっとしたお喋りに、なんか嘘っぽさを感じて、すうーっと冷めちゃう。たとえいい歌を歌っていてもね。その人を好きになれなければ、いい歌に聴こえてこない。しかし、本当にいい歌を歌っていればね、あっこの人、実はいい人だったんだと思うけど。音楽はその人自身だから」「まあ、同じ意見なのだけどね」と佐久間さんは話を合わせてくれた。

 そうは言ったものの、佐久間さんの言う通りかも知れない。性格が良ければいい歌を作れるわけではないし、性格が悪くても素晴らしい歌を作り、人を酔わせる声で歌える人はいるだろう。音楽に限らず、スポーツの世界でもそうだ。すごい記録を持っている人がいい性格だとは限らず、いい人が出世して、悪い人が出世しないわけでもない。

 しかしそれでもなお、いい人がいい音を出し、嫌な人は嫌な音を出すはずだと思いたいのだ。心が歪んでいれば歪んだ歌しか作れないし、キレイな気持ちになれなければキレイな音は出せないのではないか。音を発する、言葉を発するということは、テクニックとは関係なく、隠しようもなく、本性が表れてしまうものだと思うのだ。

 僕に才能はない。技術もない。ステージ度胸もない。昔も今も音楽で生活できたことは一度もない。これからもない。それは自慢でも皮肉でもない。ではどうして、人前で歌おうとしているのかと言えば、歌を中途半端でやめてしまった気持ち悪さと悔しさみたいなものがあったからだ。そして、歌わなければ、誰かとつながりを持っていなければ、自分は犯罪者になってしまいそうだからである。

 歌を作ったことはあるのに、詞とメロディーをぴったり合わせるコツがいまだにわからない。歌が生まれる瞬間というのは、何か自分の能力以上のものが現れるような気がする。それがどこからやってくるのか、どうすれば呼び寄せることが出来るのか知らない。ゆえに職業作家にはなれないのだ。このように一見僕は謙遜しているふうだが、実は自惚れている。人間の心は恐ろしい。

 数年前、ある歌を聴き「あれが音楽なら、僕のは音楽でなくていいや」と思ったことがある。すごい自惚れだ。ところがその歌はあっという間に大ヒットし、それも流行歌としてではなく、いわゆる名曲扱いで、みんなに親しまれ今も歌われている。音楽も人も多種多様、さまざまだ。

 さまざまではあるけれど、僕はどういう音楽が心に響き、どういう音楽が心に響かないのか、その基準はいったい何なのかを知りたくてしょうがない。人に訊ねると「感じるか感じないか」「心で歌っているかいないか」「美しいか汚いか」だったが、一番多かったのは「それは言葉にできないな」だった。

 スポーツのように、誰よりも早く走る、泳ぐ、記録を破る、点を取るという勝負の世界なら、数字がはっきり示してくれる。ところが音楽は、販売数が音楽の善し悪しと正比例するわけではない。もちろん、売れるものは売れる理由があり、売れないものは売れない理由があるのだが。歌はうまさで感動するわけでもない。心にジーンと来るか来ないかは、精神の問題であって、だからこそ、言葉にはならないのかも知れない。

 僕は23歳から45歳まで本屋をやっていたのだが、いらっしゃいませありがとうございますの世界に感動を求めていたわけではなかった。ところが閉店の日に、お客さんから思いがけぬほど惜しまれ、お客さんと作り上げて来た棚の本を見ながら涙が止まらなかった。ものの売り買いにも、何でもない日常生活にも、楽しかったことつらかった思い出にも、目に見えないくらいの小さな感動が少しずつ積み重なっていたことを、僕はお客さんから学んだのだ。

 ステージ上で叫ぶのだけが音楽なのではない。ささやかな日常にも、誰かが言ったほんの一言にも、優しい心遣い、本や映画の中のセリフ、溢れる涙、空や海や犬や猫や草木や夕焼けもすべてが音楽になりうるのではないだろうか。神様が「私は神です」とはまさか言わないように、音楽をやっている側が音楽なのではなく、感動する心が音楽なのだ。

 誰かと一緒に演奏する時、音に関する打ち合わせはほとんどしない。お互いが感じたままを出し合うだけだ。佐久間さんはプロデューサーという仕事をしていて、いくらでも注文をつけられる立場にいるのだが、こういう音を出してくれとはいっさい言わないそうだ。もちろん、そこはGではなくCですよといった単なる間違いなら指摘するだろうが、「感性は言って伝わるものではない」からだと言う。

 説明などしなくても分かりあえるというのが理想だ。カメラや電化製品も説明書を読まずして、直感的に操作でき、手になじむのがよい道具である。人間関係においてもそうだ。いちいち説明をしなければ、誤解を生むような間柄では、さびしい。犬や猫は愛という言葉を知らないのに、愛情だけで寄り添って生きている。そんな関係でいられたらと思う。

 激しければいいっていうものではない。音量で勝負もおかしい。思いっきり叫ぶとか、狂ったように歌うのは案外と簡単なことだ。ぼそぼそとわざと素朴に歌うのも、芝居がかって歌うのも、恥ずかしくなければ、おそらく簡単だろう。前衛的でありたいとか、変わったことをしようとか、凝り過ぎや細工は音楽から遠のいてゆく。文章の書き方と同じで、むずかしいことを易しく書くのがいい。いい役者ほど演技していることを感じさせない。いかにも歌っています、いかにも演奏していますというのはまだまだなのだ。

  音楽の知り合いは僕は極端に少ないのだが、非常に恵まれている。サックスの梅津和時さん、バイオリンのHONZI、ギターの佐久間正英さん、アコーディオンの熊坂るつこさん、みんな僕の歌を、生かしてくれる。いい音は呼吸をしているから生きている。身体の中を通って来るから濡れている。いい音楽は、自分は何者なのか、何のために生まれて来たのか、どう生きて行ったらよいのかを映し出す。歌を歌うということは声を出すことではない。楽器を奏でるということは音を鳴らすことではない。内臓を見せるのだ。悲しくて色っぽくなきゃ音楽じゃない。


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