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エッセイ 12

北村早樹子の歌

北村早樹子『聴心器』


「Quick Japan 66号」(太田出版)2006.6.12

 僕の耳に狂いはなかった。
 去年の十一月、名前も知らない、ましてや面識などまったくない北村早樹子さんというミュージシャンから、彼女のデビューアルバム『聴心器』のサンプル音源が届いたとき、最初は「?」と思ったが、すぐ惹きこまれていった。生意気な言い方だが、めったに好みの音楽に出合わない僕がである。HPに少し感想を書き、北村さんへ返事を出した。すると遠慮がちに「推薦文」の依頼があった。
 ちょっと困った。いいと思うものは「いい」としか書きようがないからである。説明を加えるとどんどん嘘っぽくなってしまうからだ。「推薦文は逆効果もありうることをふまえて、自由にお使い下さい」と注意書きを添えて提出した。持ち上げもしない、ありのままの気持ちだ。
 「心がざわつきました。張り詰めた緊張感。不安定な音と声。誰も真似はできない。『つくしんぼ』『やさしさ』『春の熱』など何度聴いてもあきない。誰がなんといおうと好きです」と書いた。
 今年の四月十三日、初台ドアーズで僕が企画を手伝ったイベントに北村さんにも出演してもらった。リハーサルで、まだリリースされていない新曲「蜜のあはれ」を初めて聴いた。普段おとなしくて、かよわそうで、人前で歌などとても歌えませんという雰囲気とは裏腹に、すごかった。ガーンと打ち下ろすピアノ、次の音を出すまでの異様な間(ま)、時に張り上げる声、本物であった。余計なものがいっさいない感受性だけの音楽であった。
 四月三〇日、渋谷青い部屋で行われた「『聴心器』発売記念パーティー東京篇」に出かけた。めったに人のライブには行かない(行けない)引きこもりの僕がだ。苦手なたばこの煙を浴びながら、北村さんが登場するまで長かったが、北村さんがピアノに指を落とした瞬間から世界が変わった。 
 身体に入ってくる音楽とそうでない音楽との違いは何なのだろう。いったい歌って何だろうと考えた。北村さんには作為がなかった。こうすれば受けるだろうとか、このように売ろうだとか、何々ぶってるとか、何々ふうだとか、そういう汚れがない。手垢がついていない。普通の女の子が一所懸命生きている、ささやかな悦びととてつもない悲しみが聴こえて来るだけだ。歌うしか道がない。歌わざるをえないから歌っているのだ。
 共演のバイオリンとアコーディオン奏者、波多野敦子さんの音も美しかった。彼女もまた揺れながら心の底に降りてゆく。伝えたいことがない人やわかってない人に限って、一風変わったことをやりたがるものだが、そうでない人は、すでに普通の中に普通でないものを持っているから、普通にメロディーを弾くだけで、充分人の胸に普通でないものを伝えることができるのだ。
 しかし、こんな文章は何の役にも立たない。しょせん言葉だからだ。北村さんの歌を聴いたことのない人は、もしかしてこれを読んで、「彼女の歌ってそうなのか」と思ってしまうかも知れない。しかし文字を信じてはいけない。
 AさんはBさんを語ることは出来ない。AさんはBさんの鏡に映ったAさん自身の姿しか映し出せない。北村早樹子さんの歌を聴くと僕は自分の悲しみが見えてくるということを言いたかっただけなのだ。


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