エッセイ 17
ラブ・ゼネレーション '94
「この世で一番キレイなもの」初回プレス付録パンフレット 1994年
歌をやめた時、僕はいつか、たとえば五十か六十歳で、また歌を歌いたいと漠然と思っていた。そうしなければ自分が終わらない気がしたのである。歌いたいことがあるから歌う。歌いたいことがないなら歌わない。それが歌っていることなのだ。声を出さなくとも歌は歌える。僕は歌わなかった二十数年間、実は眠っていたのではなくて「歌っていたんだね」と思われるように今歌いたい。
音が出る一歩手前の沈黙。音を出す一歩手前の息づかい。それが美しいかどうかですべてが決まる。音楽は音でもない、言葉でもない。沈黙なのだ。
言葉をどこに届けるか。音をどこに届けるか。その距離がわかっていなければ、歌は歌えない。
声が聞こえてくるだけではいけない。顔や体や足が見えてきてはじめて歌になる。
音が鳴っているだけではいけない。色や形や風景が見えてきてはじめて音楽になる。
音を記録するのではない。空気を記録するのだ。加工しなくていい。何かをいじると、必ず何かがゆがむ。
その音が本当に必要なのか。その音が本当に聞こえてくるのか。なにか意図があってはいけない。きどったところから、くさりはじめる。
伝えたいものがないと、えらく引いてしまうかでしゃばるかどっちかだ。
音はその人自身であるゆえ、こういう音を出してくれって頼むすじあいのものではない。人を選んだ時点で音は決まってしまう。
音で通じあえる人とは、言葉でも通じあえる。言葉で通じあえない人とは、結局、音とも通じあえない。
人をバカにして優越感を味わうな。劣等感が丸見えだぜ。
なぜそこを離れるか答えは簡単だ。得るものより失うものの方が多いからである。
考え方や生き方を押しつけてはいけない。そんなにステキならば嫉妬させてほしい。
第一印象が正しい。あなたの第一印象が正しい。
作品と作者は同じである。
共に歌うのではない。互いに歌うのだ。